澪たちは羽越本線で秋田まで移動し、そこから深浦を目指した。乗り換え時間を入れると、酒田から六時間ほどの旅程だった。
ふたりは五能線の深浦駅に降り立った。
──深浦は青森、西津軽郡にある、日本海に面した町である。
「さすがに日本海沿岸の町だってことは知ってるけど、北前船の〝風待ち湊〟として栄えたってあるんだけど、〝風待ち〟って?」
観光パンフレットを片手の紀生が訪ねてきた。
「名前の通りですよ。風を、船の航海に必要な順風を待つための場所なんです。特にこの先はもう津軽海峡を一気に渡るしかないですから、風向きを慎重に見極める必要があったんですよ」
「なるほどね」
風待ち湊である深浦はかつて津軽一の港ともいわれ、多くの北前船が来航した。そのため、自然と関西圏の文化の受け入れ口としても機能することになった。当時、藩の城下であった弘前との陸路の便は悪かったが、それでも弘前藩が町奉行所を置いたことからも、その重要性がわかるというものだ。
現在の深浦は世界自然遺産・白神山地と絶景の日本海に囲まれ、多くのリゾート施設を擁する観光地として知られている。
駅を出たふたりはタクシーを拾い、深浦漁港近くに向かった。そこで円覚寺(えんがくじ)と、そこに隣接する北前船関連の資料館「風待ち館」を取材することになっている。まずは「風待ち館」の見学から始めることになった。
「おぉ、こりゃ凄い!」
紀生が子どものような歓声を上げた。
ふたりを迎えた、北前船の復元模型を目にしたからである。
「深浦丸」と名づけられたその模型は、全長七・五メートル、幅二・四四メートル、そして帆の高さも五・一メートルもある、見上げるほどに巨大なものだった。
二階から見下ろすと甲板の造りもリアルに再現されているのがわかった。
「大きいですけど、これでも三分の一に縮小したものだそうですよ」
案内を読んで澪が教えると、紀生は「へぇ」と感嘆の声を上げた。
「七百石積のサイズですね。新潟小木民俗博物館の板図を元に再現されたものだそうです」
「板図って?」
「板に書いた図面のことです。ただ、当時は真横から見た図面しかなかったはずなんで、他の資料も参照したみたいですね」
「え? ちゃんとした図面なかったの?」
「そうなんですよ。勘と経験てことなんですかね。それで、これだけのもの造っちゃうの凄いですよね」
「風待ち館」には他にも北前船が運んできた遠隔地の石や、難破した北前船から引き揚げられた黄金の仏壇などが展示されていた。
見学を終えた後、澪は受付スタッフの初老の男性に北浦の顔写真を見せた。
「あー、この人ね、覚えてますよ。北前船の研究してるって。一昨日くらいに訪ねてこられたのかなぁ。酒田の資料館の学芸員さんですよね。確か名前は……」
「北浦誠一さん」
「そうそう、北浦さん」
他のところと違って、北浦はここでは自ら名乗ったのか。
「あの、北浦さん、ここでなにを……」
「あぁ、船箪笥を見たいっていうんで、奥に案内したんですよ」
「え? つまり普通は展示されていないものなんですか?」
合点がいった。特別な品を見せてもらうために、北浦は身分を明かす必要があったのだ。
「はい。ちょっと見ます?」
既に酒田市役所の職員という身分は明かしていたので、話は早かった。澪と紀生は奥の保存庫に案内された。
「あの船箪笥ですよ」
見せられた船箪笥はかなり痛んでいた。引戸の板は裂け、金具もかなり欠損していた。澪はこれまで綺麗に保存されたものしか目にしたことはなかったが、本来は昔のもので、船上で使われていた品である。むしろ、こうして痛んでいるほうが普通なのだろう。
「最近、ここに譲り受けたものなんですけどね、ご覧の通り、痛みが激しいもので、このまま展示するのも難しいし、どうしようかと思っていたところだったんですよ」
「つまり、この船箪笥がここにあるという話は、あまりオープンな情報ではなかった……?」
「それはそうですけど……」男は言った。「そういう情報は関係があるところだと、まぁ普通に流れるもんですからね」
「そうなんですね……わかりました、ありがとうございました」
スタッフに礼を言い、澪は紀生とともに「風待ち館」を後にした。
「北浦さん、ここにも来てたんだね」
腕を組んだ紀生に、澪は、
「はい。ここであの船箪笥から刻磁石の針の破片を回収したんだと思います。それに、これではっきりしました」
「ん? なにが?」
「お父さんともお話ししてたんですけど、北浦さん、欠片を集める行動が妙に的確で。北浦さんを支援して、情報を与えてる人がいるんじゃないかって考えてたんです。函館市立博物館の片桐さんて人が怪しいかと思ったんですけど、本人には否定されたようで」
「なるほどね」
「それに……私、北浦さん、やっぱり片桐さんに会おうとしてるように思えるんですよ。福井から始まって、ずっと北上してるし」
「ん? それはちょっと単純すぎない?」
「そうかもしれないですけど、そもそも、人間て、そんなに複雑な行動します?」
澪の言葉に紀生は「うーん」と考え込んだ。
「──わかんないね、確かに」
続いて澪たちは「風待ち館」のすぐ近くにある円覚寺を訪ねた。ここも港と目の鼻の先で、北から吹いてくる風は濃い潮の匂いがした。
円覚寺
境内に入ると、杉の巨木がふたりを迎えた。
案内によればそれは「竜灯杉」と呼ばれており、かつては近くを航海する船の目印になっていたものだった。信心深い漁師たちからは「助けの杉」と呼ばれ、闇夜で光を放ち、難破した者たちを導くという伝説も残っているという。
寺の本堂脇には、海上交通安全を守る金比羅大権現が祀られた金比羅堂があった。
酒田から取材に来たと告げると、寺の若い僧侶がガイドを買って出てくれた。
「この円覚寺というのは、真言宗の寺ですが、昔は『当山派修験宗』といって、修験道の一派でした。ここは真言系の山伏寺だったんですね」
──円覚寺の創建は今を遡ること千二百年前、八○七年に征夷大将軍坂上田村麻呂が厩戸皇子作の十一面観世音菩薩像を安置したことが始まりと伝えられる。
「んん?」
紀生が奇妙な声を上げた。
「厩戸皇子って聖徳太子のことでしょ? あれ? 聖徳太子って実在したんだっけ?」と、澪に囁く。
「それいろんな説があるみたいですよ。厩戸皇子は実在したけど、聖徳太子と同一人物とは限らないとか、みたいな」と、澪も小声で返した。
「いや、でも、いきなりひょいっと聖徳太子だよ。驚くよそれは……」
創建以来、円覚寺は代々の豪族の庇護下にあり、江戸時代になると、津軽藩の祈願寺となる。そして、本尊である十一面観音は船玉明神の本地仏といわれ、船乗りの信仰を集めた。
「今の様子からだとなかなか想像しにくいと思うんですが、この深浦はとても栄えた港だったんですよ。大小の船問屋がたくさんありましてね」
僧侶の話は円覚寺のことから、深浦の町の話に移っていた。
「それはただの風待ち港ではなかったということですか?」
澪の質問に若い僧侶はうなずいて答えた。
「津軽藩の御用湊は鰺ヶ沢と青森なんですが、蝦夷地に渡るには、この深浦がいちばん都合がよかったからなんですね。対馬暖流が近く、いちばん風もよかった。ご存じかと思いますが、松前、函館、それに江差なんかでも一日で行けたという話です」
そして蝦夷地に向かう前、船乗りたちは必ずここで祈祷をし、十一面観音のお札を帆柱に結って渡海するのが慣わしだったという。
「そのため、日本各地の船乗りがこの深浦に立ち寄ったというわけです。例を挙げるなら、福井に右近家という有名な北前船主がいまして……」
突然出てきた、右近家の名前に澪は驚いた。
「その右近家から祈祷を依頼された文書なども残っているんですよ。
他に、この深浦が栄えていた証拠があるんです。経済的な繁栄だけでなく、文化的な充実といいますかね。大変、俳句が盛んだったんですよ。港の反対側に宝泉寺というお寺がありまして、そこに千鳥塚、別名芭蕉塚というものがあります。松尾芭蕉の命日に深浦の俳人たちが集まり、それをしのんで建てられたものです。明和四年、一七六七年のことです」
十八世紀半ば、つまり北前船の全盛期だ。
「つまり、この深浦にそれだけ俳句を楽しんでいる人の……サークル的なものがあったと?」
澪の言葉に僧侶は微笑み、
「そうですね。それだけを見ても、当時の深浦の文化水準の高さが窺えると思いますよ」
当時の深浦にはよく文人墨客が訪れたという。町の富豪がそれをもてなし、逗留させ、他の土地の優れた文化を吸収する土壌があったのだ。いわゆるサロン文化の先駆けである。
「文化だけでなく、商業的なことでもやはり全国と交流が深くてですね、いろいろな商人の屋号、そこにもその痕跡があるんです。越後屋、小浜屋、若狭屋、大坂屋、讃岐屋、敦賀屋、それぞれ自分たちの出身地を屋号にした商人が大勢いたんですね。それだけ各地と交流があったと。それから、このあたりの言葉は福井あたりとイントネーションがそっくりといわれてます。福井から来た人たちがそれだけ多くいたことを示しているそうです」
他にも深浦の舮作というところに、黄金崎銭衛門(こがねざきぜにえもん)という名の海賊が居を構え豪勢な暮らしをしていた、という話も残っている。それだけ船の行き来が多かった証拠でもある。
「あの、この深浦には日和山はなかったんでしょうか?」
「あぁ、ありますよ」
澪の質問に僧侶は答えた。
「日和山といいますか、後志見山というところがそうです。歴史のある場所で、斉明帝の頃、七世紀半ばに、阿倍比羅夫が蝦夷平定のため、その山頂で戦略を練ったという伝説があります。北前船の頃には、そこで船乗りたちが海の様子を見定めたと伝えられています」
話を聞いた澪たちは、同寺の寺宝館を見学することになった。
その前に北浦がここに立ち寄ったかどうか、それを確かめようかと思ったが、澪は結局そうしなかった。
「でも……北浦さん、『風待ち館』だけじゃなくて、きっとここにも寄りましたね」
澪はぽつりと言った。
「どうしてそう思うの?」
「だって、ここは蝦夷地に向かう人が祈祷する場所だって話じゃないですか。それに……いえ、なんでもないです」
右の掌がじんわりと熱くなっていたが、そのことは紀生には言わないでおいた。
──寺宝館には重要文化財である「薬師堂内厨子」をはじめ、数々の展示物があった。その中でも、澪たちの目当ては船絵馬と、そして髷額だった。
「髷額」とは木板に留められた「髷」のことだ。荒天で難破しそうになった船乗りたちが、髷を切り落として帰還を必死に祈る。無事に生還した後、その髷を奉納したものである。髷額はその性質上、船絵馬などと比べて残されている数は少なく、その数においてはこの円覚寺が日本一であり、船絵馬とともに、国の重要有形民俗文化財に指定されていた。
「実際、船に乗ってた人たちの髪の毛かと思うと、こりゃなんともいえないリアリティというか迫力があるねぇ」
紀生の素直な感嘆には、澪も同意せざるを得なかった。
澪は飾られた髷額を、ひとつひとつ、丁寧に見ていった。髷が留められた木板には「奉納」という文字が大きく記され、髷の脇には──崩した文字で判読し難かったが、船名や船乗りらしい名前が連ねられていた。
「……」
なんだろう?
澪は首を傾げた。
今、不思議な感覚があった。
多く並んだ髷額の中の一枚が、なぜか、ぐんっと飛び出すように見えた。気づけば足が勝手に動いて、その髷額に迫っていた。
それもまた木板に太い髷がいくつも留められ、空いたスペースに船の名前が記されていた。
──星辰丸。
──酒田 誠太郎。
まだ墨痕鮮やかな文字を見つけて、澪は息を呑んだ。
「星辰丸……酒田、誠太郎」
まさか、ここで出会うとは思わなかった。
酒田の船乗り……船主であり船頭の誠太郎が……あの北浦誠一がこの円覚寺に、髷額を奉納していた。
「風見さん、これって……」
澪の様子、そして木板の文字から、紀生も事情を察したようだ。
『──おまえに、会いたい』
澪の耳元、否、頭の中から声が聞こえた。
もう間違いようのない、それは北浦の声だ。
目の前の光景が恐ろしい速さで遠ざかっていく……。
「……」
体重が喪失するあの感覚にも襲われた。
だが、澪は必死に踏ん張った。
持って行かれまいと、懸命に歯を食いしばる。
澪は大きく息を吐いた。
「……」
──周囲の景色に変化はなかった。
すぐ隣にいた紀生は目の前の髷額を興味深そうに眺めていた。
「しっかし、人の髪の毛って丈夫なんだなぁ。抜ける時は脆いんだけど、こうなると頑丈っていうのが癪に障るなぁ」
と、自分の少し薄くなった後頭部を撫でながら、呑気な感想を漏らしている。
「田辺さん」
と、澪は呼びかけた。
「そろそろ鰺ヶ沢に向かわないと。近いといえば近いですけど、時間はありませんから」
「あぁ、そうだね。こんなに見るところがあるとは思ってなかった」
先に寺宝館を出て行く紀生の背中を見送り、澪はいちど足を止めた。振り返って、誠太郎……北浦の髷額に視線を向ける。
「──北浦さん」
あなたは、いったい、誰に会いたいの?
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